【創作】虹色トカゲと夏休みのはじまり

 油断をすると日常は瞬く間に消えていく。ふいに、自分が間違った場所に立っているようで不安になる。ついこの間産んだはずの次男は、元気に走り回っているし、妖精みたいに可愛かった長男は、嘘や隠し事をするようになった。そして長女は、もうすぐ私の身長に追いつく。

 小学校の終業式の日、朝から四杯目のコーヒーを飲み、私は一心不乱にキーボードを叩いていた。延期してもらっていた在宅仕事の納期に、また間に合わないかも知れない。仕事そのものはそれほど難しいものではない。ただ、納期に遅れているという事実が、私のストレスを増幅させていた。
 二歳の次男タブレット端末で『うっかりペネロペ』のビデオに見入っていた。飽きるとすぐに私の膝に乗ってきて仕事にならないので、今がチャンスだ。私はモニタに集中する。
「ただいまー」
 団地の重いドアを開ける音がする。娘が帰ってきた。タイムアップだ。私はがっくりとうなだれて椅子から立ち上がる。次男タブレット端末をソファに置いて、玄関に向かい走っていく。
「はっちゃ、おかえりー!」
「おかえりはーちゃん、終業式どうだ……、なにそれ!」
「小学校の、むらさき門の階段の下で捕まえた。この子、全然逃げないんだよー」
 娘は左手の小脇に引き出しを抱え、右手の指先にはトカゲを乗せていた。体長三センチほどの、小さな小さなトカゲ。
「わあ、虫かご虫かご! ……ないな。ペットボトルでいいかな」
「慌てなくて大丈夫だよ。逃げないから」
 ゴミ箱からファンタグレープのペットボトルを取り出して、キッチンバサミで上部を切り落として丁寧に洗う。娘はランドセルを背負ったまま、トカゲを指先に乗せていた。六年生のわりに小さい体はこんがりと日焼けして、長いストレートヘアは少し乱れていて、まるで異世界に住むエルフみたいに見える。
「本物のトカゲ、久しぶりにみた。カナヘビはたまに見るけど」
「ニジトカはレアなんだよー」
「ニジトカって言うの?」
「うん。みんなそう呼んでるもん」
 小さなトカゲをペットボトルの中にそっと入れて、排水口ネットで蓋をする。黒くて艶のある身体に、黄色い縦のラインが入っている。しっぽは緑色から青色の綺麗なグラデーションになっていて、先が三ミリほど折れている。娘が捕まえるときに、尻尾が切れてしまったのかも知れない。切れたまま、完全に取れてしまわずにまだ繋がっている。
 小さいけれど美しいトカゲだった。子どもたちが「虹色のトカゲ」と呼ぶのも分かる気がする。次男はいつの間にかテーブルに登っていて、ペットボトルの中を興味深げに覗き込んでいる。
「これ、たぶんニホントカゲだよ。最近ほとんど見ないよね」
「そう? はーちゃんたまに見るよ。ねえ、明日から夏休みだしこの子飼いたい。自由研究はニジトカの観察日記にする」
「いいけど、ちゃんと餌を食べてくれるかわからないし、弱ったら逃してあげようね」
「うん、弱らなくても夏休みが終わったら逃してあげる。かわいいねえニジトカ」
「かあいいねえ、かあいいねえ」
 台所のテーブルの上で、透明な円柱の中に入った虹色のトカゲを、三人で眺めていた。
「はーちゃん、トカゲに生まれ変わりたいなー。綺麗だしかわいい」
「うーん、トカゲに変容する人って、あんまりいないんじゃないかな」
 祖母の死期が近づき、変容する生き物を選んだときのカタログには、爬虫類の写真はなかった。たいていは犬か猫、ハムスターや鳥に変容する人もいる。だけど、蝶に変容したという人の話を聞いたことがあるし、トカゲに変容できないこともないのだろう。それを望む人があまりいないだけで。
「トカゲだと、虫しか食べられないよ、きっと」
「えー、虫は食べたくない。じゃあトカゲやめる。ママはなにになりたい?」
「うーん、お刺身と日本酒を飲んでもいい動物っているかな」
「いないんじゃない?」
 冗談めかして私たちは笑う。真剣にトカゲを見つめる娘の横顔は、やせっぽっちの体に似つかわしくなく、大人びて見えた。いつのまにこんな顔立ちになっていたのだろう。まるで知らないどこかのお嬢さんみたいだ。

「ただいまー」
「あっく、おかえりー!」
 長男が引き出しを抱えて帰ってくる。次男はテーブルから椅子をつたってするすると降り、玄関に駆けていった。
「このニジトカも、前は人間だったのかもね」
 娘はそう言って、少しだけ笑った。