【創作】女になった官能小説家と森に放されたおばさんの話

 生後五ヶ月の次男をようやく寝かしつけて、冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出す。私は酒が好きで、今でもアルコールを欲してはいるけれど、妊娠授乳期間はなんとか我慢できている。「この世の中から酒は絶滅し、ノンアルコールビールは唯一残された前時代の遺物なのだ」と思い込めばどうということはない。
 書斎のソファには夫が座っている。私は隣に腰を下ろし、プルタブを開ける。二人とも言葉を発さないけれど、仲が悪いわけではない。沈黙が苦痛でないだけだ。
 夫は黙々とミックスナッツを食べている。コストコで買ったミックスナッツの大きなボトルには、食べ始めた日の日付と、夫の体重が記されている。ナッツを毎日食べると痩せるというのは本当なのか、体をはって実験をしているのだ。今のところ、太っても痩せてもいないようだけれど。
 
 ネットワークから「ぴろろん」と通知音が鳴る。
「あ、“溜り場”から通知が来てる。カケネちゃんとモリさんがいるみたい。行ってきてもいいかな」
「いいよ、俺ももうすぐ合戦だし、陣をはらないといけない」
「合戦あるんだ。東西戦?」
「おう」
「ご武運を」
「うむ」
 二人とも最後は少し笑いながら、別れの言葉を告げる。
 
 私は“溜り場”に移動する。私たちは自宅の書斎のソファに並んで座りながら、同時にそれぞれ別の場所にも存在している。いつのまにかそういうことができる時代になったのだ。考えてみればすごいことだと思う。
「こんばんはこんばんは!」
「こんばんはー、あれ? モリさんは?」
 溜り場のカウンター席には、カケネちゃんが座っていた。いつもどおりの右端の席で、ノンアルコールビールを飲んでいる。私も隣の席につき、同じものを注文する。
「モリさん、さっきまでいたんすけど、仕事で呼び出されました」
「こんな時間まで仕事かあ、大変だねえ。カケネちゃんの方の進捗はどうですか」
「余裕です! 一日六千文字書けば間に合います!」
「数日前まで、一日四千文字書けば間に合うってゆってなかったっけ。増えてるし」
 小柄な体を揺らしてカケネちゃんが笑う。サラサラのストレートヘアが彼女の横顔を見せたり隠したりしている。
 カケネちゃんの職業は官能小説家だ。今の姿に変容する前は、筋肉質なおっさんだったと聞いたことがある。まれに、まだ健康なのに自分の体を変容させる人がいる。保険適用外だからとても高額になるし、寿命を縮めるというリスクもある。自分より大きなものに変容することはできないから、例えば私が身長百八十センチのイケメンになりたいと思っても、それは不可能だ。
「原稿、ここで書いてもいいよ。私は本でも読むし」
「いえ、飲むときは飲むことに集中します!」
「ノンアルコールなのに」
 
 カケネちゃんは、あと何年生きられるのだろう。たいていの人は本来の姿で充分に生き、死期が近づいてから小動物に変容する。今頃実家のソファで眠っている、灰色猫のキミコさんと同じように。
「二回目の変容ってできるのかなあ」
「ああ、親戚にいますよ。フェレットから二回目の変容をしたおばさん」
「へえ、フェレットなんてすごく小さいのに」
「わりと金持ってたおばさんなんですけど、フェレットに変容する前に、エンディングノートに書き記しといたらしいです。フェレットとしての寿命が近づいたら、再び変容させてくれって」
「なんになったの?」
「蝶」
「蝶!」
 昆虫に変容したという人の話を聞いたことがなかったし、それを望む人がいるというのも意外だった。
「普通は最後の時を家族と過ごすために、もしくはホスピスでかわいがられるために変容するじゃないですか。でも、おばさんはなんでか知らんけど看取られたくなかったんでしょうなあ。蝶になって、森に離してくれって」
「蝶になったおばさんはどうなったの?」
「さあ? 蝶の寿命を知りませんけど、まだそのへんを飛んでるのか、鳥にでも食われたのか」
「ええええええ、ご家族もよく納得したねえ」
 カケネちゃんもいつかは再び変容して、最後の時を家族と過ごすのだろうか。
 
 溜り場のドアが開いてモリさんが入ってくる。今日はカジュアルなボーダーのTシャツを着ている。
「あ、山田さん来てましたか」
「おかえりなさいおかえりなさい!」
「こんばんは、モリさんお仕事だったんですか。大変ですねえ」
「ええ、半熟煮玉子を探してました」
 散歩から帰ってきた、という風情でモリさんはそう言った。